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2007年1月

2007/01/28

ボッティチェリの絵画2

~ 前記事ボッティチェリの絵画の続きです。 ~

白光の村田先生が「み教え研究会」と題して、講師の方の質問に答えている内容の小冊子が我が家に置いてあるのですが、その中で村田先生が美術館で見た様々な絵について解説しており、ボッティチェリのことも取り上げられておりました。紹介させていただきます。

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あちこちの国を廻っている間に、自分に関心がなかったものを、絵の中から色々と教えられました。その絵の見方とは、絵の正面へ立って、姿勢を正してピーッと波動が合うと、私との間に、バイブレーションが起って、その絵の中から物語が出てくるのです。巨匠が心血を注いで描いた絵は素晴らしいです。・・・(略)・・・ボッティチェルリの絵は、何処かで見たことがある・・・そうだ、神界の上の方にあった。その人たちの絵は、よく描こうという思いの絵ではなく、全身全霊を打ち込んで描いた時に、上の方からのものを視せられて神界の波が入ってきて描いているのです。それらの絵は、私の魂を魅了しました。その題名は「ヴィーナスの誕生」でしたが、神界の太陽が、貝として表現されています。神界のものと違っていたところが3ヶ所ほどありましたが、素晴らしい名画です。

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さすが、村田先生としか言えません。村田先生以外には、決してできない絵の解説です。(^^ゞ

これは、神界で「ヴィーナスの誕生」とそっくりの絵を見たことあるということなのでしょうね。
神界のものとは3ヶ所違っていた、と言われても、私達にはさっぱりわかりませんが(笑)、ボッティチェリが高い世界からの波を受けて絵を描いていたということが、このお話からよくわかります。

優れた絵画の場合、その絵画の響きが、一体どういった霊的階層から流れてきているかということは、中々普通の人には掴みにくいものではないかと思います。

私はルネサンスの絵画が好きで、ボッティチェリだけでなく、ミケランジェロやラファエロや、ダヴィンチも好きですが、果してその良さをどれだけ味わえているかとなると、実はそのひびきの一端を感じ取れているだけではないかと思うのです。

五井先生が、若い人でバッハは良いと言っている人がいますが、バッハは宗教的に相当な高い精神状態にならないと、その真の良さはわからないのですよ、と仰っておられましたが、そういうものなのでしょうね。

しかし、とにかくそういった優れた芸術に数多くふれると、知らない間に心が浄められて、精神が高めあげられていくのは間違いのないことだと思います。

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ボッティチェリの絵画

昨日、テレビ東京系列の番組「美の巨人たち」でルネサンスの画家のボッティチェリが取り上げられていました。ボッティチェリは、イタリアのフィレンツエで活躍した画家です。
その番組は、途中からちょっと見ただけでしたが、私は彼の絵がとても好きです。

2年ほど前、神戸で開催されていた「ベルリンの至宝展」で、ボッティチェリの描いたヴィーナスの絵を見ました。有名な「ヴィーナスの誕生」の、ヴィーナスの部分だけを取り出したような絵で、髪型や表情が少し違うだけでよく似ていました。
その時、風韻誌に書いた感想を紹介させていただきます。

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ボッティチェリの絵画は、ルネサンスの芸術家達に大きな影響を与えた、新プラトン主義の思想(ギリシャ哲学とキリスト教が融合した思想)を表現していると言われています。
中世のキリスト教が、大衆の心の支えになったと同時に、一方では人間本来の命の伸びやかさ・自由さを抑圧してきたという側面は否定できないと思います。
新プラトン主義は、人間は罪深いものという中世の考えに対して、人は愛を仲立として神との交流を目指すものであると、人間賛歌を高らかに歌い上げたのです。

ヴィーナスは、新プラトン主義では魂のイメージで、神の美と愛を表すとされたそうです。中世のキリスト教の考えでは、肉体は悪しきものとされていましたから、裸の女性を描くことは考えられないことでしたが、ボッティチェリは、人間の肉体に現われている神の命の美しさを気高い精神性をもって見事に描きました。

しかし、サボナローラという修道僧の教えの影響を受けてから、ボッティチェリの絵は彼本来の瑞々しい美しさを失ってしまいます。サボナローラは、フィレンツエの人々に、「悔い改めよ、贅沢や享楽は魂を滅ぼすだけだ。初期キリスト教会の単純さのみが人々を救う」といった説法を行い、神権政治を始めた人です。サボナローラにとって、裸体画や異教の神を描いたルネサンス芸術は許せるものではなく、多くの絵画や彫刻を集めて焼却してしまいます。

まさにサボナローラが非難するような絵を描いていたボッティチェリの心は激しく動揺します。自分の描いてきた絵が、神の御心に反する罪深いものだったかもしれない、という恐れを感じたのでしょうか。ボッティチェリは自分の意志で、彼の絵を焔の中に捧げたと言われています。後にサボナローラが異端の罪で処刑されても、ボッティチェリは彼への信仰を失わず、彼が説いた厳格で禁欲的な宗教生活を続けました。彼の絵は徐々に瑞々しさのない硬いものに変わってゆき、ついには絵筆を折ってしまいます。晩年は不遇な生活を送り、65歳で亡くなりました。

私は、ボッティチェリの人生に思いを馳せる時、彼は自分の作品の素晴らしさを理解していなかったのだなぁと思わずにはいられません。本当に作品の良さを深く理解していれば、自分が描いてきた絵を否定するようなことは決してなかったでしょう。

ルネサンスの芸術家は、過去世、古代ギリシア・ローマ時代の画家や彫刻家だった人が多いと父から聞きましたが、ボッティチェリもそうだったのでしょう。彼は天より流れてくる神様の響きを、絵筆を通してスッと通しやすい体質で、その訓練というか修行も過去世相当やってこられたのだと思います。ただそのことを、肉体のボッティチェリ自身が自覚していなかったのでしょう。それでサボナローラとの縁もあり、彼の言うことに動揺してしまい、素晴らしい絵が描けなくなってしまったのだと思います。

私は、ボッティチェリは、晩年は確かに気の毒だったけれども、あの時代に与えられた天命を充分に完うしたのだと思っています。そして晩年の不遇を嘆くより、彼が『ヴィーナスの誕生』などの素晴らしい作品を創造した奇跡を称えたい気持ちがいたします。
人間賛歌こそ、彼の傑作と共に、永遠に残っていくボッティチェリの真実の精神なのですから・・・・・・。(略あり)

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2007/01/24

統一について

日曜日、久しぶりに神戸集会所の法話会に参加しました。
大阪の本部道場には普段来られない方や、会員の人が新しく連れてきてくださった方、インターネットでコスモス会の存在を知った方や、古くからの大本教の信者さんなど、35名程の方が来てくださいました♪
神戸集会所は毎週、メンバーの方たちが集会を開いており、活発に活動しています。
この地域で、コスモス会の運動が大きく広がっていく手応えを、今回強く感じました。

各地の集会所に時折参加させて頂きますが、様々な場で、様々な人たちと、心を一つにして、「世界平和の祈り」を祈らせていただけることは、本当にありがたいことです。

父が言っていましたが、「統一」というのは、毎回通ってくる神さまの光の働きが違うのだそうですね。

統一する土地・場所や、どういう人が参加しているか、などの様々な諸条件によって、神道系の神々が前面に働いてくることもあれば、仏教系・キリスト教関連の神霊が働かれる場合もあり、その時によって異なるのだそうです。

個人で統一する場合であっても、神様は、その時、その人に一番合った光を流し入れて下さるのだと思います。

だから毎回同じことを繰り返しているようでいて、同じ統一というのはない。統一も一期一会なのだと、よく父は言っています。
一回一回の統一というのが本当にありがたいものなのですね。

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2007/01/18

神戸法話会のお知らせ

1月21日(日)、神戸集会所で法話会があります。
時間は、午後1:30~4:00までです。
お近くにお住まいの方は是非ご参加ください♪

ちょっと早いかもしれませんが、風韻誌3月号が2月25日頃に発売されますので、体験談等の文章を書いていただける方は、ご協力よろしくお願いいたします。
締め切りは、2月の初旬(6日ごろ)です。
4~5行ぐらいの短い文章でも、長い文章でも結構ですので、事務局までFAXで遠慮なくどしどしお送りください。
(コスモス会のHPのアンケートや私宛のメールで送って頂いても構いません)

天奏家のHP、しばらく更新されていませんでしたが、最近父の詩のコーナーを追加したりしています。
天奏家のHPでも、コスモス会のHPでも、こういう内容をもっと紹介してほしい、といった、ご要望があれば、お気軽にアンケートをお送りください☆

それと、風韻誌一月号でも、「冬の古老」という素晴らしい詩を書いてくださった、のんのんさんのブログ「草庵日記」を、右のおすすめのサイトで紹介しております。
皆様、是非是非ご覧下さい。

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2007/01/12

静中に動あり

この前の五井先生の講話テープ拝聴会で、五井先生が、国家と個人のあり方について、「個人の方から、国のために命を投げ出して尽くす行為は尊い。しかしそれとは反対に、個人を犠牲にして国家を生かすような政治は、決して平和な世界は生み出さない」といった旨のことをお話されていて、とても感銘を受けました。
個人は国家のために、国家は個人のために、お互いに尽くしあうのが本来のあり方なのでしょうね。

それを間違えて、「自分さえ幸せで楽しければいい、国なんてどうでもいい」という利己主義の国民が増え、「国が発展するためには個人なんていくら犠牲になっても構わない」と考える政治家が増えたら、その国は間違いなく衰退していくことでしょう。

私達が日々、世界平和の祈りの中で「日本の天命が完うされますように」とお祈りしていることは、日本という国の真の発展に大きく尽くしていることになるのだと思います。

さてさて、今日は、仁川の家に飾っている父の書を1点紹介したいと思います。

Pict2000_2
5年ほど前に書かれた作品です。
静中に動あり 動中に静あり―禅の言葉だと思います。

五井先生が「神様の世界は、限りなく静かなんだけれども、一般的にイメージされる寂しげな静けさとは違う。静かでいながら、生き生きとして力強く、命の躍動に満ちているんだ」という意味合いのことを仰っておられたのを聞いたことがあります。

この書について父に聞くと、「静寂に徹すれば、命の躍動が現われてくる。その命の躍動の中に、静寂の世界がある。常に統一して動く、という意で書いた。」と言っていました。

騒がしい感情想念の波の渦から離れて、本心の静寂の世界に統一する訓練を、普段の日常生活の中で積み重ねていくことが大切なのでしょうね♪

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2007/01/04

神様が働かれる社

箱根駅伝、順天堂大学が優勝しましたが、我が母校は6位に入り、5年ぶりシード権獲得しました!\(^o^)/
(10位以上だと、シード権を獲得して来年の箱根駅伝への出場が約束されるのですが、11位以下だと、もう一度予選会に出場して、上位に入らなければならないわけです)
毎年毎年シード落ちするたびに、ガクッときていたので、嬉しい限りです。

正月、神戸の生田神社に初詣に行きましたが、とても混んでいました。
今年は女優の藤原紀香が結婚式を挙げる予定で話題になったせいで、例年より多くて、参拝者の三が日の合計は173万人だったそうです。

参拝者の行列にそって、「悔い改めよ」とかキリスト教の言葉を書いた看板を掲げた人がズラッといて、拡声器で「あなたたちは穢れたままでは天国に入ることは出来ない」とか流していましたが、あれは一体どこのグループでしょうか?
正月早々そんなこと誰も聞きたくないだろうと思うのですが、当の本人達は真剣にやっているのでしょう。

昔、母親が某宗教団体に入っている知人から、「どうして宗教をやる人間はあんなに人目を気にしないのか」と言われたことがあります。
あまり人目を気にしすぎるのもよくないと思いますが、自分が信仰している宗教に熱中するあまり、他から見て奇異に感じられるような行いをしてしまうのはやはり感心できないことだと思います。
私も宗教信仰者としてよくよく注意していきたい、と思いました。

神社に参拝するときは、いつも「世界人類が平和でありますように」と、世界平和のお祈りをしています。
細かい具体的な願いというのは特にしませんでした。
個人の真の幸せも、家族の幸せも、自分の周りの人たちの幸せも、全部この祈りの中に含まれていますからね。

よくよく考えると、実は、世界平和の祈りをしている私たちの体そのものが、守護霊様・守護神様・救世の神々様が働く社(やしろ)―神社なんですよね。

自己は神様が働かれる尊い器なんだという自覚を持って、日々の祈りに励んでいきたいと思います。

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2007/01/02

新年祝賀法話会

新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

今日、高殿・本部道場で、新年祝賀法話会が開催されました。

最初、五井先生の「人間と真実の生き方」の奉唱を全員で行い、青年部のJさんによる五井先生の詩「新しい年には」(『平和讃』より)、「これからだ」(『いのり』より)の朗読がありました。
続けて、10分の統一を続けて3回行い、心の中で、五井先生のご意志が日本国民並びに世界人類を通して現われることをお祈りいたしました。
次に新年の挨拶・祝辞として、集会所や支部の代表の方たちのメッセージが読み上げられました。(私も少し話をさせていただきました)

その後、父の法話がありました。
話の冒頭部分だけ少し抜き出して、紹介します。

「あけましておめでとうございます」という言葉は正月の間しばらくの間使いますが、「あけまして」ということは新しいものがスッカリ出てきたということです。
五井先生が説いて下さった消えてゆく姿で世界平和の祈りは、瞬々刻々「あけましておめでとうございます」という教えなんですね。
古いものは全て過去世の因縁の消えてゆく姿であると観じると同時に、世界人類が平和でありますように、と神様の中に入る。
天岩戸開きといいますが、天照大神(神様の御心)がその人を通してスーッとまっすぐ出てくる―あけましておめでとうございます、ですよね。
その生き方を更に強固な立派なものにしていきたいなと、昨年の暮れから強く思っていました。

昨年の30か31日に、お祈りする時に座ったのと同時に、奥から「天地は悠久なり」という強い響きが奥から流れ込んできました。
天とは「世界人類よ平和であれ」という神様の御心。地とは神の子である肉体人間の私たち。私たちが世界人類が平和でありますようにと祈ることで、根源の無限大光明の中に一つにならしていただいている。そういう生き方を瞬々刻々している。
瞬々、あけましておめでとうございます、という晴れ晴れした気持ちで、一日一日を生き続けていくのが、本来のあり方です。」


最後に、合唱部によるコーラス『おのがさち』『天地の』があり、『世界平和の祈りの歌』を全員で斉唱しました。

多くの方たちと新年のお祈りをさせていただきまして、大変ありがたく思いました。
今年も皆さまと共に、心を一つにして「世界平和の祈り」を祈らせていただきたいと思います。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊さま 守護神さま 五井先生ありがとうございます

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