2007/06/10

無我平静

先日、父がメンバーの人との話の中で、このようなことを言っていました。
少し言葉が違ったり、私が付け加えた部分もありますが、大体こういった意味合いのことを話していたと思います。

宗教に無我夢中になってはいけない。夢中とは夢の中と書く。
感情的に自分がやっていることに酔ってしまって、地から足が離れて、夢の中に入ってしまうような信仰ではいけない。

無我夢中が更に進むと、熱狂になる。
熱狂とは、熱く狂うと書く。
熱狂的な信仰になってはいけない。

宗教信仰者は、地に足をつけた落ち着いた生き方をしなければいけない。
こんな言葉はないけれども、「無我平静」でなければいけない。


その通りだと思いました。
そのようにならないように気をつけなくてはいけないですね。

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2007/05/21

善悪二元論

皆さまはゾロアスター教という宗教を御存知でしょうか?
古代イランで生れた宗教で、善悪二元論を特徴としています。
ニーチェの著作であり、クラシックの曲にもなっている「ツァラトゥストラはかく語りき」の、ツァラトゥストラとは、ゾロアスターのことです。
(父はゾロアスターのことを、超能力者・霊能力者と言っていました)

宇宙の法たる神・アフラ・マズダーを主神として、アフラ・マズダーに従う善神と、それに背く悪神がいて、人間は自らの意志で善悪どちらかの側に立つことができる。善の勢力と悪の勢力が争い、最終的に善の側が勝利する―このゾロアスター教の善悪二元論の思想は、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教に大きな影響を与えました。

イエスさんは「人間はみなキリストであり、神のみが実在する」という神一元論を説いたはずなんですけれども、神と対抗して、悪なるものが存在するという思想が現在のキリスト教には入り込んでしまっています。

「心身の神癒」でイエスは、「悪」についてこう説いておられます。

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第一話―74
あなたたちは自分たちの物質的感官世界で、善にも悪にも同じ力があるように見せかけてしまっている。
しかし、これは人間的感官による理屈づけであって実在の真理ではないのである。

第一話―75
神には善とか悪とかいうものはなく、神は今の今完全無欠に現われてい給う。
もし、あなたたちが偏在し給う神が善であるといい乍ら悪も又存在するというのであれば、あなたちの理論は間違っている―偏在する善の中にいかにして悪が存在しえようか。

第一話―76
考え違いが悪の存在を信じ込ませるのである。
理屈を立てずに、神の愛があなたたちを通して現われるに任せよ。
そうすれば恐れを抱かしめるもの、真実の表現を妨げるものは本来の無となって解消しさるであろう。―略―
なぜならばそれ(悪)は偏在している神の中には存在しないし、又存在しえないからである。

「心身の神癒」(マクドナルド・ベイン著/霞ヶ関書房)より引用

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「真実の表現を妨げるものは本来の無となって解消しさるであろう」―これはまさに消えてゆく姿の教えですね☆

神様の中には悪は存在していません。
悪が存在しないのだから、悪と争い対立するような善も、神様の中には存在していません。
この世の相対的な善悪というのは、すべて消えてゆく姿であると思います。

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2007/05/13

融通念仏と世界平和の祈り

念仏といえば、法然や親鸞、蓮如、一遍といった人たちがすぐに思い浮かびますが、平安時代後期の尾張国出身の僧で、良忍(りょうにん)上人という人がいます。

良忍上人は「一人の人の唱える念仏が他の全ての人の念仏と通じ、一人の人の善行が他の人の善行とお互いに融通しあって、全ての人が浄土に往生できる」と説いたので、上人が開いた宗派を「融通念仏宗」と呼びます。

「自分ひとりが救われる(悟る)のではなく、ひとりの念仏(善行)が他の全ての人に通じ、お互いに影響しあって、すべての人が救われていく」という上人の思想には、大変惹かれるものがあります。
一般にはそれほど有名ではないですが、後の一遍にも影響を与えたといわれ、日本の仏教史において、大きな役割を果たされた人ではないかと思います。
おそらく上人は、今は救世の大光明の中で、世界平和実現のために、大きな仕事をされているのでしょうね。きっと。

五井昌久先生の提唱された「世界平和の祈り」は、個人と人類が同時に救われていく道(個人人類同時成道)であり、良忍上人の「融通念仏」の思想と合い通じるものがありますね。

「世界人類が平和でありますように」と祈ることで、自分の周りにいる人たちはもとより、アメリカであろうと、北朝鮮であろうと、アフリカであろうと、世界中のあらゆる人たちに、救世の神々の光が流れていくことになります。

また、それとは反対に、「世界平和の祈り」を祈る人は、世界中に何万人といるでしょうから、その人たちの祈りの光が私のところにも流れてきているのだと思います。(そんなことを普段、あまり意識したことはありませんが・・・)

そもそも「救世の大光明」とは、大神様を中心として、イエス、老子、釈迦、法然、親鸞、あらゆる歴史上の聖者・神々が集った救世の大光明霊団の光なのですから、膨大な数の神々の光が私達の体を通して流れていっていることになります。

そう考えると、「世界平和の祈り」はホントにすごい!と思うのです。

個人と人類、人類と神々の祈りの光がお互いに融通しあって、地球上の業が大きく浄まり、平和世界が築きあげられていくのですね。

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2007/03/02

同じ底辺を持った三角形

久しぶりに、私の心の師の一人である、陶芸家の河井寛次郎さんの言葉を紹介します。

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同じ底辺を持った無数の三角形―人間

それぞれ違った角度を持ったこれらの無数の三角形。
鈍角、鋭角、等辺、不等辺。
どうしてこれだけの差があるのかと驚かされる差。
類似はあっても、微塵の同一のないこの差異。
しかし、微塵の差異もない同一の底辺に支えられたこの差異。

(「河井寛次郎著・火の誓い」より引用)

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宗教の世界では、人間は誰しも、同一の大生命より分かれた存在だと説きますが、寛次郎さんは「同じ底辺を持った無数の三角形」というユニークな表現をされています。

地球人類60数億人すべてが、同じ一なる大生命より生まれてきました。
それでいて、一人ひとりが、他の人とは異なった、その人にしかない個性・天命を持っています。

21世紀は、宗教や人種や文化の違いを越えて、私たちがみな同一の大生命より生まれた兄弟姉妹であることに気づき、お互いの天命を尊重しあい、生かしあっていく時代になるのでしょうね♪

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2007/01/04

神様が働かれる社

箱根駅伝、順天堂大学が優勝しましたが、我が母校は6位に入り、5年ぶりシード権獲得しました!\(^o^)/
(10位以上だと、シード権を獲得して来年の箱根駅伝への出場が約束されるのですが、11位以下だと、もう一度予選会に出場して、上位に入らなければならないわけです)
毎年毎年シード落ちするたびに、ガクッときていたので、嬉しい限りです。

正月、神戸の生田神社に初詣に行きましたが、とても混んでいました。
今年は女優の藤原紀香が結婚式を挙げる予定で話題になったせいで、例年より多くて、参拝者の三が日の合計は173万人だったそうです。

参拝者の行列にそって、「悔い改めよ」とかキリスト教の言葉を書いた看板を掲げた人がズラッといて、拡声器で「あなたたちは穢れたままでは天国に入ることは出来ない」とか流していましたが、あれは一体どこのグループでしょうか?
正月早々そんなこと誰も聞きたくないだろうと思うのですが、当の本人達は真剣にやっているのでしょう。

昔、母親が某宗教団体に入っている知人から、「どうして宗教をやる人間はあんなに人目を気にしないのか」と言われたことがあります。
あまり人目を気にしすぎるのもよくないと思いますが、自分が信仰している宗教に熱中するあまり、他から見て奇異に感じられるような行いをしてしまうのはやはり感心できないことだと思います。
私も宗教信仰者としてよくよく注意していきたい、と思いました。

神社に参拝するときは、いつも「世界人類が平和でありますように」と、世界平和のお祈りをしています。
細かい具体的な願いというのは特にしませんでした。
個人の真の幸せも、家族の幸せも、自分の周りの人たちの幸せも、全部この祈りの中に含まれていますからね。

よくよく考えると、実は、世界平和の祈りをしている私たちの体そのものが、守護霊様・守護神様・救世の神々様が働く社(やしろ)―神社なんですよね。

自己は神様が働かれる尊い器なんだという自覚を持って、日々の祈りに励んでいきたいと思います。

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2006/11/26

芸術は宗教の母なり

かつて大本教の出口王仁三郎さんは、「芸術は宗教の母なり」という名言を残されました。
普通の宗教者だと、「宗教は芸術の母なり」と言いそうですが、逆にいったところが、非常に面白いところです。
ここで、王仁三郎さんのおっしゃっているところの芸術とは、絵画・音楽・舞踊・詩・文学などの人間が作り為した芸術のことのみではなく、「天地間の森羅万象すべてが神様の芸術的産物である」と捉えての言葉であります。

山川草木・動植物など、その他あらゆるものを創造された大芸術家(大神様)の御心と一体となって生きていくのが真の宗教だ、というのが王仁三郎さんの言葉の真意であって、これには深くうなずかされます。


王仁三郎さんは、楽茶碗や書画に才を発揮されましたが、形の上で創作をしなくても、優れた宗教家と言われる方たちは、みな芸術的情緒が豊かな詩人であると思います。

父は、最初五井先生にお会いしたとき、宗教の先生というより、雰囲気が芸術家のようだった、と言っておりましたが、お写真やビデオで先生のお姿を拝見しましても、何と美しい方なんだろう、と心が揺さぶられます。


今、コスモス会のHPの音声のコーナーで紹介している、法話会の話のなかで、五井先生の短歌や詩を読むことを父が薦めていましたが、私もそれを心がけています。

最近、五井昌久歌集・夜半の祈り(白光出版)を読んでいて、秋の落ち葉をテーマにした歌がたくさんあり、とても心に染みました。
このブログのデザインにも合っているので、幾つか紹介しますね☆


世の乱れここにはあらず一枚の桜落ち葉に神の愛みる

一枚の桜落ち葉にもこもりゐる天地(あめつち)の愛手に染みてきぬ

舞い落ちて土に憩へるはひそかなり落ち葉山林の秋を深めつ

金色に陽(ひ)に照り舞へど人の世のかなしみうつる寺の銀杏(いちょう)葉
 

天地のあらゆる万象を通して、深い神様のみこころを見出してゆけるような、情趣豊かな人間になってゆきたいものですね。

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2006/07/30

棟方志功さんのこと

昨日、テレビ東京の「美の巨人達」という番組で、棟方志功さんの、吉祥の女神を描いた肉筆画を取り上げていましたけども、やっぱりいいですね。
棟方さんは、板画は勿論のこと、肉筆画も素晴らしい作品をたくさん残されています。
彼の作品は、ダイナミックな生命力に満ち満ちていて、それでいて人を包み込むような、優しさ、柔らかさがあって、私は大好きです。
近くで展覧会があると、必ず見にいきます。

「板画は僕の呼吸そのもの。肉筆画は筆が勝手に動き出す」と仰っておられたそうですが、棟方さんの絵を描いているのを映像で見ると、そのスピードに驚きます。
「えっ、これ3倍速で再生してるんじゃないの」と思わず、思うぐらいです。

棟方さんは、「自分の力で仕事をするということは、小さな無力なものだ。自分の板画は、私が彫ってるんじゃないんだ。私は仏様の手先になって、板木の上を転げまわっているだけなんだ、私が作るのではなくて、仏様の力によって、自然に生まれてくるんだ」といったことを仰っておられたそうです。

棟方さんの創作の根本精神には、浄土真宗に代表される他力の思想があると思いますが、そこに私は強く惹かれるものがあります。

棟方さんが絵を描いたり、板木を彫ったりしている映像を見ると、何か巨大な力が、板画の神様、仏様が、棟方さんの肉体を使って、描かせ、彫らせているような、そんな印象を受けます。

父が、棟方さんの過去世は、念仏に徹したお坊さんだ、と言っていましたが、やっぱり、そういう過去の積み重ねがあるんですね。

肉体には何の力もないんだ、神様、仏様によって、この自己は生かされ、動かされているんだ、ということが、学問としてではなく、頭脳知識としてではなく、体ではっきり体覚されていたんでしょうね。

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2006/07/28

世界平和の祈りは感謝の現れ

先日、ある文章で、村田先生が「本当に消えてゆく姿は、『神様消してくださいましてありがとうございます。』と心より感謝が湧き上がったときに、その業生は必ず消えてゆくのです」とお話されているのを読んで、ハッとさせられるものがありました。

村田先生の言葉は、自らが実践しきったところからの言葉ですから、大変心を打つものがあったのですが、いざ自分のことを顧みると、確かに、嫌なこと、都合が悪いと思う出来事が起こった時に、これは守護霊様が、過去世の業因縁をできるだけ小さい形で消してくださっているんだと、頭ではよく理解できるのですが、実際、そのことに対して、いつも心から感謝できるという心境には中々なれないものです。

そんなことを思っている時に、五井先生の講話をテープで聞いていましたら、ある方が「我々は感謝できる時と、感謝できない時がありますが、どうしたら全感謝できるようになれますか」と質問されていました。

五井先生はどのようにお答えになるだろうか、と思って聞いていましたら、こういうようなお答えをされていました。


  ☆  ☆  ☆

自分が病気になったり、不幸な状況になったときでも、感謝できなければ、本当に宗教の道に入ったとはいえませんが、中々そこまでいく人はいません。

けれども、表面の想いで、病気なり、不幸なり、個々の現象の出来事に感謝できなくても、「世界人類が平和でありますように」という響きの中に自分が入ってしまえば、世界人類のために尽くしていることになり、言い換えれば、世界のあらゆるものに感謝したのと同じことになるんです。

世界平和の祈りを祈るのは、業想念ではなく、いつも本心なんです。
表面的には不平の想いがあっても、世界人類が平和でありますように、と祈れば感謝の気持ちが現れたことになるんです。

いい状態のとき、喜んで感謝しながら祈るのは言うに及ばず、最低の状態であっても、嫌々ながらでも、「世界人類が・・・」とやれば、いつも感謝していることになります。


  ☆  ☆  ☆


これを聞いて、改めて、「世界平和の祈り」って、何て素晴らしい祈りなんだろう、と感動してしまいました。世界人類が平和でありますように、という祈りそのものが、感謝の響きの現われなんですね☆


次の妙好人の浅原才市さんの言葉は、五井先生が仰られたことと相通じる部分もあると思うので、ちょっと紹介したいと思います。

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「才市よい、うれしいか、ありがたいか。」

「ありがたいときや、ありがたい、なつともないときや、なつともない。」

「才市、なつともないときや、どぎあすりや。」

「どがあも、しよをがないよ。
なむあみだぶと、どんぐりへんぐりしているよ。

今日も来る日も、やーい、やーい。」

『妙好人』 鈴木大拙 法蔵館

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才市さんが、80歳を超えてからの言葉だそうですが、鈴木大拙さんが、これを評して『古今の高僧でも至り易からぬ境涯』と仰っておられたのは、さすがだなぁ、と思いました☆
才市さんが、念仏一念に徹せられたのを少しでも見習って、私も世界平和の祈りを祈ることに徹してゆきたいと思いました。

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2006/07/15

浅原才市さんの言葉

浄土真宗で、在家の信仰生活をおくる、すぐれた念仏行者のことを「妙好人」といいます。

浅原才市さん(1851~1932)という有名な妙好人がいますが、今日は、私が好きな才市さんの言葉を紹介したいと思います。
(才市さんと阿弥陀様とのやりとりになっています)

「さいちよい。へ。たりきをきかせんかい。」
「へ。たりき、じりきはありません。
ただいただくばかり。」

「妙好人 鈴木大拙著」(法蔵館)より

ただいただくばかり!
阿弥陀様への、何という深い感謝に満ちた言葉でしょうか。

他力信仰者であろうと、自力信仰者であろうと、無宗教であろうと、そういったこととは関係なく、人間は誰しも、最初から一番大事な命を神様からいただき、この世界で生きる諸条件(空気や水、食料となる動物や植物など)を神様からただで与えられています。
更に一歩進んで考えると、人間の創造力や思考力といったものも、実は神様から与えられているものであると思います。
そのことに対する感謝が、宗教の根本であろうと思います。

才市さんは、こういう言葉も残しています。

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ありがたいな、ごをん(ご恩)、おもゑば(思えば)、みなごをん。

「これ、さいち、なにがごおんか。」

「へゑ、ごをんがありますよ。
このさいちも、ごをんで、できました。
きものも、ごをんで、できました。
たべものも、ごをんで、できました。
あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。
そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。
ちゃわん、はしまでも、ごをんで、できました。
ひきば(仕事場)までも、ごをんで、できました。
ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。
ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。」


「妙好人 鈴木大拙著」(法蔵館)より

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―世界にあるもの、みな阿弥陀様のご恩でできました。みな南無阿弥陀仏です。阿弥陀様ありがとうございます。―

才市さんの言葉を読むと、宗教というのは、単純素朴な感謝の心が一番大切なんだなぁ、と思えてきます。
中々、才市さんのように深く感謝できる心境にはすぐにはなれないですけども、少しづつ神様への感謝を深めてゆきたいと思っています。

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2006/06/25

心身の神癒~イエスの言葉~②

以前の記事で取り上げた「心身の神癒」から、イエスの言葉を、また幾つか紹介したいと思います。

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第11話―60
嬰児(みどりご)が母の膝の中で安らぐように、あなたたちも又自分が久遠の愛なる父の膝の中にいることを実感し、神に全託するがよい。
そうすればあくせくすることもなくなり、神の力があなたたちの心と胸に宿り、あなたたちの腕は強く、心は敏捷となるであろう。これがあなたたちと共にあるキリストの力である。

第11話―61
すると父はあなたたちをその愛で抱きしめ、あなたたちはその食卓で食べ、父おんみずからの手であなたたちに給仕し給うであろう。

第11話―62
父は幾千とも知れぬ方法で絶えずあなたたちと共に語り、あなたたちと共に歓び給うであろう、そしてあなたたちを特愛の児として扱い給うであろう。

第11話―63
こうしてあなたたちは何時も父の聖なる臨在の中において自分自身のことを考えるようになるであろう。

第11話―65
人間のうちでも最も下劣で、腐敗しきった者、父に対してあらゆる種類の罪を犯したであろう者でも、自分の一切の悪を告白し、聖なる赦しを求めて、その慈悲に全託しさえすればよいのである。

第11話―66
わたしの父はその恵みを彼の前に拡げ、責めもし給わずにその食卓の席を彼に与えた給うであろう。

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これを読むと、神様の人間に対する絶対的な愛に、ジーンときます。

自分が過ちを犯したときでも、そのことに対して自分がちゃんと反省をし、神様ごめんなさい、世界人類が平和でありますように、と神様の慈悲に全託しさえすれば、神様は必ず赦してくださると思います。

私達にとって、守護霊様・守護神様、そして五井先生が、魂の父母であろうと思います。
守護霊様・守護神様・五井先生に、本当に深く感謝しているときは、私たちは、五井先生の膝の中にいる、守護霊様・守護神様の愛に包み込まれているのだと思います。


昔ある白光講師の方が、「救世の大光明が光り輝く道場は五井先生のお体そのもの。私たちは、今、五井先生の手の平の上に座って、お祈りをしているのですよ」という旨のお話をされているのをテープで聞いたことがあるのですが、「手のひらの上」という表現が、絶対的な安心感を感じさせ、とても心に残っています。

座って統一しているとき、私は今、五井先生の膝の中にいる、五井先生の手のひらの上にいる、五井先生の大光明の中に包まれているんだ、と思うと、心が安らぐ思いがします。

守護霊様・守護神様・五井先生は、子供である私たち一人ひとりを特別に愛してくださって、守り導いてくださっている―このことはどこまで信じても間違いのないことだと思います。

Pict1617_1
↑コスモス会・堺集会所に飾っているイエスの肖像画です。
家にも飾ってあるのですが、間近で見ると、霊妙な響きを感じさせる、例えようのない美しさで、思わずその美しさに見とれてしまいます☆

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