2007/12/01

寛次郎展報告

前回の記事から、大分間が空いちゃいましたね。
今年もあと一ヶ月。2007年も、もう終わりを迎えようとしております。

さてさて、報告が遅れましたが、
一ヶ月ほど前に、以前紹介した大山崎山荘美術館の寛次郎展に行ってきました~。

当日曇り空で館内が暗く、フラッシュ撮影になったので、実際の作品より少し明るくなりすぎて、色調が変化しているかもしれませんが、何点か紹介致しますね☆

Kanjirou_gousu_2
「倣作伊万里赤絵盒子」
初期の頃は、こんな作品も創ってらしたんですね。
晩年の作品と比べると、 とても同一人物の手によるものとは思えませんが、作風は変っても、品格の高さは、若い時から晩年まで、一貫して貫かれていると思います。


Kanjirou_tubo
「草花文扁壺」
日常生活で使われる「用の美」を目指して制作していた中期の作品。
これとほぼ同じ形状の作品が、知人によってミラノの国際工芸展に出品され、グランプリを受賞しました。
そのことに対して寛次郎さんは、「その栄誉は作品がもらったもので、私がもらったものではないですよ。民族の伝統が受賞したのです。私の作品というのもおこがましい」と語られました。

寛次郎さんは、芸術家と呼ばれることを嫌い、文化勲章や人間国宝も辞退されました。
「われわれの仕事は個人ではなく、みんなの協力でやっているが、地方にむけば名前は知られていなくても、自分なんかよりうんと立派な腕を持って宝物を作っている方がまだまだおられる。その方たちが先で自分の順番はまだこないんだよ。」
作品に銘(誰某が作ったという印)もいれず、多くの無名の職人のように、一介の陶工であることを貫かれました。

Kanjirou_sansyoku
「三色双頭扁壺」―70歳を超えてからの作品です。

「このごろは壺を作っていると、かたちがこれまでのものとちがってだんだん彫刻的になってくるんですわ。その壺に向かって目をつぶってくすりをぶつける。ところが焼いてみると釉薬がちゃんと器に落ち着いている。これは他力のおかげですよ。自分が考えてやった仕事ではなく、自然に逆らわずに生れてきたものだから、それがどう受けとられるか、観る方にお任せですね。」

晩年は、「民藝(民衆的工藝)」に「民族の芸術」という新しい解釈を加え、心の内奥から湧き上がる生命の流れに任せて、自由無碍に創作し、独自の美の世界を切り開いていくことになります。
現代版縄文土器とも呼びたくなるような、原初の生命エネルギーが躍動している素晴らしい作品だと思います。

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2007/09/13

大山崎での寛次郎展

京都の大山崎山荘美術館で、河井寛次郎 焔の造形展9月20日(木)から12月9日(日)まで開かれるようです。
本館が英国風の洋館で、新館が安藤忠雄さんの設計で地中に配されている、とても素敵な落ち着いた趣の美術館です。
モネの睡蓮の絵が新館に常設されています。

写真撮影が可能で(本館の方だけだったと思いますが)、何年か前に寛次郎さんの展覧会があった時、パシャパシャと作品を撮りました。

↓本館の2階のオープンカフェにリーチさんと浜田庄司さんの陶板が置いてあります。


Pic0681

Pic0682

上がリーチさん、下が浜田さんです。
割と大きなサイズだったと記憶しています。

お近くにお住まいの方で関心のある方は、是非見に行かれることをお薦めします。

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2007/07/28

饗応不尽

陶芸家の河井寛次郎さんの詩を一編紹介します。
寛次郎さんが76歳で亡くなった年の詩で、最後の個展の案内状に記された言葉です。

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「饗応不尽」

無数のつっかい棒で支えられている生命
時間の上を歩いている生命
自分に会いたい吾等
顧みればあらゆるものから歓待を受けている吾等
この世へお客様に招かれて来ている吾等
見尽くせない程のもの
食べきれないご馳走
このままが往生でなかったら
寂光浄土なんか何処にあるだろう


(「河井寛次郎の宇宙 講談社」より引用)
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このままが往生でなかったら寂光浄土なんか何処にあるだろう・・・何とすごい言葉でしょうか!

寛次郎さんの陶器と同様、詩も、本当に深い深い世界を現していると思います。

自分に会いたい吾等―私たちは奥深くにある真の自分を見つけ出すためにこの世に生れてきたのだと思います。
それと、寛次郎さんにとっての、「自分」というのは、自分も他人もない、すべてのものの中にある「一なる大生命としての私」という意味合いも込められていたように思います。

食べきれない御馳走というのは、食べ物のことじゃなくて、美しいものの事の喩えでしょう。
私たちは、多くの生命によって支えられて生かされ、私達の周りには見尽くせないほど、味わい尽くせないほどの美が溢れています。
その事実に対して、寛次郎さんほど深く感謝することは今の私にはとてもできていませんが、少しでもその心境に近づけていけたら、と願っています。

※「饗応不尽」とは尽きない宴の意です。

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2007/05/19

人間の本当のもの

陶芸家の寛次郎さんの残された言葉を一つ紹介します。

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人はその人が出した最高なもので評価されなければならない
まずいものはその人のほんとうのものではないから―人間全体のほんとうのものではないから
ほんとうでないものは その人にも人間にもいらないものであるから

(河井寛次郎の宇宙 講談社)

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寛次郎さんは、人間の神性を讃えることに徹せられました。
寛次郎さんの言葉が心を打つのは、実際にその言葉通りのことを日々の生活の中で実践されたからです。


私は、寛次郎さんのように、他人をその人から出た最高のもので評価するということが中々できなくて、つい悪い部分の方に把われてしまうことがあります。

しかし、たとえ人の悪い部分を見て、非難する想いが沸いてきても、それがその人の本当の姿だとは思いません。

まずいものは、その人の神性を覆っていた業想念が現われて消えてゆこうとしているのであって、その人の本心は光り輝いているのだと信じることができます。

そのように思えるというのは、本当に幸せなことです☆


河井寛次郎記念館のサイトがありますので、「どんな人なんだろう」と興味をお持ちの方は是非ご覧下さい♪

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2007/03/02

同じ底辺を持った三角形

久しぶりに、私の心の師の一人である、陶芸家の河井寛次郎さんの言葉を紹介します。

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同じ底辺を持った無数の三角形―人間

それぞれ違った角度を持ったこれらの無数の三角形。
鈍角、鋭角、等辺、不等辺。
どうしてこれだけの差があるのかと驚かされる差。
類似はあっても、微塵の同一のないこの差異。
しかし、微塵の差異もない同一の底辺に支えられたこの差異。

(「河井寛次郎著・火の誓い」より引用)

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宗教の世界では、人間は誰しも、同一の大生命より分かれた存在だと説きますが、寛次郎さんは「同じ底辺を持った無数の三角形」というユニークな表現をされています。

地球人類60数億人すべてが、同じ一なる大生命より生まれてきました。
それでいて、一人ひとりが、他の人とは異なった、その人にしかない個性・天命を持っています。

21世紀は、宗教や人種や文化の違いを越えて、私たちがみな同一の大生命より生まれた兄弟姉妹であることに気づき、お互いの天命を尊重しあい、生かしあっていく時代になるのでしょうね♪

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2006/09/26

「幻の棟方志功」展

大丸ミュージアムKOBEで25日まで開催されていた「幻の棟方志功―大原美術館、クラレ秘蔵作品より―」展に行ってきました。

Munakata

大原美術館の創業者であり株式会社クラレの経営を担った大原孫三郎と、息子の総一郎は、日本民藝運動の支援者であり、棟方さんとも深い親交がありました。

上のチラシの緋鯉の屏風絵は、大原孫三郎の還暦祝いに描かれたそうですが、それにふさわしい、おおらかな、幸せな気分になる、実に立派な絵でした。
絵の中から、鯉が飛び跳ねて出てきそうな、元気な、瑞々しい生命力に満ち満ちた絵でした。幾人かの人達が「すごいねぇ」と、感嘆の声を上げていました。


菩薩が描かれた大原邸の襖絵が展示されていましたが、その絵を描いた際のエピソードが面白いものでした。
5人の菩薩で、仏の備える5つの智慧「情熱」「叡智」「寛容」「仁愛」「静謐」を現しているのですが、翌日の円遊会に間に合わせようと描いたところ、絵がさかさまになっているのに気づいて、マアマアの仕上がりだと満足していたのが一転、これは大変だということになったそうです。
結局、その日の夜の内に張りなおしたそうですが、何とも棟方さんらしいエピソードだな、とほほえましくなりました。
前に椅子があったので、座ってしばらく眺めていましたが、何ともいえず良い心地がしました。


大原美術館の外観を描いた絵の中に、初めて美術館を見た感想として、「ゴッホを初めてホンモノで見ましたがコレは弱いと思いました」と書かれていました。
このゴッホの絵は後に贋作の疑いがかけられ、今では撤去されているそうです。
「わだばゴッホになる」と言っていただけあって、さすがにゴッホを見る目は確かだったようです。

棟方さんの芸術は、仏教の他力の思想と密接に結びついています。
棟方さんは、アメリカで板画のレクチャーを行った際、このように自分の板画を説明したそうです。
「自力の考えに立てば、板画をつくるということになるのですが、他力の考えに立てば、板画はつくらなくても、仏様の力によって自然に生まれてくるのです。私は、彫りも刷りも余り上手ではない。下手な方なのだけれども、その下手なところは、仏様、つまり板画の神様が助けてくれる。私は幸せです。」

棟方さんは、視力が悪くて、左目は見えていませんでしたが、そのことでかえって、肉体の目の力に頼らず、内なる神仏の力にお任せして創作することができたのではないかと思います。

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2006/07/30

棟方志功さんのこと

昨日、テレビ東京の「美の巨人達」という番組で、棟方志功さんの、吉祥の女神を描いた肉筆画を取り上げていましたけども、やっぱりいいですね。
棟方さんは、板画は勿論のこと、肉筆画も素晴らしい作品をたくさん残されています。
彼の作品は、ダイナミックな生命力に満ち満ちていて、それでいて人を包み込むような、優しさ、柔らかさがあって、私は大好きです。
近くで展覧会があると、必ず見にいきます。

「板画は僕の呼吸そのもの。肉筆画は筆が勝手に動き出す」と仰っておられたそうですが、棟方さんの絵を描いているのを映像で見ると、そのスピードに驚きます。
「えっ、これ3倍速で再生してるんじゃないの」と思わず、思うぐらいです。

棟方さんは、「自分の力で仕事をするということは、小さな無力なものだ。自分の板画は、私が彫ってるんじゃないんだ。私は仏様の手先になって、板木の上を転げまわっているだけなんだ、私が作るのではなくて、仏様の力によって、自然に生まれてくるんだ」といったことを仰っておられたそうです。

棟方さんの創作の根本精神には、浄土真宗に代表される他力の思想があると思いますが、そこに私は強く惹かれるものがあります。

棟方さんが絵を描いたり、板木を彫ったりしている映像を見ると、何か巨大な力が、板画の神様、仏様が、棟方さんの肉体を使って、描かせ、彫らせているような、そんな印象を受けます。

父が、棟方さんの過去世は、念仏に徹したお坊さんだ、と言っていましたが、やっぱり、そういう過去の積み重ねがあるんですね。

肉体には何の力もないんだ、神様、仏様によって、この自己は生かされ、動かされているんだ、ということが、学問としてではなく、頭脳知識としてではなく、体ではっきり体覚されていたんでしょうね。

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2006/06/11

河井寛次郎の思想(2)

今日は、陶芸家の河井寛次郎さんのエッセイ「火の誓い」に収録されている言葉を、一つ紹介したいと思います。

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助からないと思っても助かって居る。

人は善美の中に居ながらこれを拒む事にのみ努力をしている贅沢者。
こんな贅沢者さえ善美は包む。ほったらかされては居ない。
ほったらかされては居ないのに人はほったらかされて居ると思いたくて仕方がないのだ。

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この言葉を最初読んだとき、「これは参ったな~」と思わず笑ってしまいました。
神様は真善美と言いますから、文中の「善美」を「神様」と言い換えても良いと思います。
そうすると、より一層この言葉が心に染みてくるのです。

神様の命は私たちの身の周りの樹木や草花等の自然にも現れているし、守護霊様・守護神様はいつも私たちを守ってくださっています。
内にも外にも、いたるところに神様の善美は溢れているのだと思います。

神様から見たら、そのことに感謝しないで、不平不満ばかり言っている人間は、ホントに善美(神様の愛)に包まれながら、これを拒む事にのみ努力をしている贅沢者なのでしょうね。

それにしても、「人はほったらかされて居ると思いたくて仕方がないのだ。」って、よくこんなに上手いこというものだ、と苦笑せずにはいられません。
本当に、そうですよね♪

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2006/05/18

河井寛次郎の思想

以前も取り上げましたが、私が尊敬する芸術家の一人に、陶芸家の河井寛次郎さんがいます。
寛次郎さんは、陶芸だけでなく、木彫制作や、家具やキセルのデザインなども手がけられ、多彩な才能を発揮されました。

下の写真は、一昨年、京都の大山崎山荘美術館で開催された「表現者 河井寛次郎展」に展示されていた書です。(館内撮影自由でした)

Pict0656

「喜者皆美―喜ぶ者は皆美しい」
寛次郎さんは、様々な4字熟語を自分で考えて、それを書に書きました。
「眼聴耳視―眼で聴く耳で視る」「手考足思―手で考え足で思う」「心刀彫身」「手霊足魂」・・・等々。

この展覧会の感想を、当時の風韻誌に書いたのですが、その文章の一部を、ここでもう一度紹介させていただきたいと思います。


『館内に掲げられていた寛次郎さんの言葉、「美しいものしかない みにくいものはまよひ」が、私はとても心に残りました。寛次郎さんは、美しいもの、つまり神様の命のみを実在と思われ、あらゆるものの中から真実の美を見出され、また表現され続けたのだと思います。
「不美不存」という寛次郎さんの4字造語があります。美しくないものは存在しない、醜いと思われるもの、この世の中のあらゆる不幸や悪は全て消えてゆく姿なのだ。私も、寛次郎さんのように人間が本来美しく喜びに満ちた存在―神の子―であることを信じ、世界平和の祈りを祈り続けていこう、と決意を新たにしました。
醜いものは全て消えてゆく姿と観じて世界平和の祈りを祈り続ければ、神様がすべて浄めて下さって、この世がどんどん美しく光り輝いたものになってくるに違いありません。』



そういえば、そもそも、このブログを始めたのは、ある方から、「あなたは寛次郎さんや板画家の棟方志功さんが好きだから、HPでも作って自論でも書いてみたら。」と言われたのが、きっかけだったんですよね。

結局、当初考えていたのとは違って、いつのまにか、主に五井先生とコスモス会を紹介するサイトになってしまいましたけどね(^^♪

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2006/04/12

バーナード・リーチさんの作品展

今、陶芸家のバーナード・リーチさんの作品展を、兵庫陶芸美術館でやってるみたいですね。
私は、リーチさんをはじめ、民藝運動に参加された作家が好きで、近くで展覧会があるとよく見にいきます。
ずいぶん前のことになりますが、東京の駒場にある日本民藝館で、リーチさんの兎を描いたお皿が置いてあって、それがはじめて見た彼の作品でした。
シンプルに大きく描かれた耳が長い兎の絵は、おおらかで生き生きと力強く、リーチさんの暖かな人間味にあふれていました。
ヨーロッパ的なんだけれども、東洋の焼き物のような、落ちついた渋い趣があって、「いいなぁーっ」と思いました。

大阪のリーガロイヤルホテルに、リーチバーという、リーチさん設計の、河井寛次郎や棟方志功の作品を置いてあるバーがあります。すごく良い雰囲気のお店です。
そこに風景や鳥や動物を描いたリーチさんの陶板が6つほど飾ってあって、一見すると、何の変哲もない絵だとも思ったのですが、じっと見ていると、飽きさせない、独特な味わいがあるんですね。

「バーナードリーチ 日本絵日記」という本の中に、リーチさんの「開かれた窓を風が吹き抜けるように、生命の霊気が人を通過する時、動きは軽やかに自然に流動する」という言葉がありましたが、リーチさんの絵は、内奥からの生命の霊気の流れのままに、描かれているのでしょうね。

私は今回の展覧会は、少し遠いので行きませんが、関心のある方は、お勧めですので、ぜひ足を運んでみてください(^^♪

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